昭和42年04月06日 朝の御理解



 何が美しい、何が偉大と申しましても、天然の美ほど美しいものはない。天然の働きほど、偉大なものはないと思います。御道の信心を頂かせて貰って、その天然の美にも等しい様な大みかげを蒙らせて頂くと云うところに、私はお道の信心があると思うのです。小学校の時に習いました、唱歌の中に、「天然の美」というのが、皆さんもご承知でございましょう。
 空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音、大波小波どうどうと。何かああ言う文句の歌がございましたですね。たえなるまでの天然の、自然の働きの偉大さと、その美を歌った歌でございます。歌の文句にもその歌詞にも、ましての、その偉大さ美しさを持っておるもんだと思います。そういう働きがです、私共の上にも頂けるのだと。もう10年も前でございましたでしょうか。
 頂ましたご理解の中に、天然地念というお言葉を頂ました。天然と云うのは、いわゆる天然の美の天然ですね。自然の然、天の天、地念と云うのは、地に念ずると書いてございます。御祈念の念なんです。「天然地念」その様に偉大なものはなくて、その様に美しいものはないのでございますが、そういう、いわば、目を見はる様なと申しましょうか。人知人力においては、とてもそう云う事は出来ない。
 とても人間の力とは思えないと、思われる様な大みかげをです。頂かして頂くためにはどこまでも、地念の信心がいるのでございます。地にひれ伏した実意丁寧、地にひれ伏した姿勢と申しましょうか。人間何にも出来る事はないのです。ですからもう一切の前にひれ伏す意外にないのです。という事はどの様な事かと言うと、大地の心天の心地の心という様な事を申しますが、いわゆる大地の心地の心地の働き。
 教祖の神様は天の恩を知りて地の恩を知らぬ事と御教え下さった。小倉の桂松平先生でも。当時日本一と云われる程の大徳を受けられた、甘木の安武先生でも一番に所謂感嘆の声をあげられ、何と云う素晴らしい御教えであったもんであろうか。とそれに感嘆されたのは、教祖が大地のご恩徳を説いておられると云う事でございました。仏教ではその本当の意味は私は判りません。けれども大地の事を忌み土と申します。
 と云うのは汚れたものという意味なのです。大地というのは天のものは素晴らしくても、地のものはいわば汚れておるという訳です。忌み土と言うそこを教祖は大地のご恩徳なしには一切のものが、成就しないと悟られたんです。それに天の恵みがあり地の恩を悟らして貰う所から、天と地が一つになって舞い遊ぶ様な鶴と亀とが舞い遊ぶ様な、祝い目出たいと云う程のおかげが、そこから頂けるのだと教えておられます。
 そこんところは、私が頂いた御理解ですね。天と地が一つになって、始めて鶴亀の舞い遊ぶ様な大みかげという事を。これは私が頂いておる御理解です。ですからその大地の心を心としてと云うですかね、天地の心を心としてと云うのですけれども。とりわけその大地の心が判らなければいけんのです。いわゆる大地の性格が判らなければいけんのです。そこで大地の心を私共の心としてです。
 大地の性格と言うのは、どう云う様な事かと申しますと。成る程どの様な汚いものであろうがです、それを浄化せねばやまんという働きを持っております。どういう煩わしい問題でもどういう汚い事でも、私共の心一つにです。よってそれを清めさして頂こうという願いを私共が持つ事が、大地の心を心とする事なのです。皆さんの回りにもございましょうが。いやな問題、難儀な問題。
 それをです自分の心の中に治めさして貰い。それをじっと自分の心でそれを難儀ではない、困った事ではないそれを有り難いものであると頂いた時に、その汚いものも困った問題も浄化される訳でございます。大きな木があります葉が落ちる枯れ枝が落ちる。下にある大地はそれこそ迷惑千万煩わしい。けれどもその煩わしいとも困ったとも云わずに、黙ってそれを受けて行くのが大地の心なんです、大地なんです。
 それを只、黙って受けて行くだけではありません。それをです浄化して行くのです。その大木、大きな木なら木の根肥やしになる、そういう働きまでもするのです。私の向こうに、私に敵対する人があると致しましょうか。あん奴がと云うのではありません。あの人のおかげで私が磨かれるのだ。あの人のおかげで私が改まる事が出来るのだ。あの人あって私と云う様な頂き方が出来る時にです。
 もうそれを敵ではなくて、なるほどキリストの言葉ではないけれども、汝の敵を愛せよと、いわば愛しなければおられんのです。可愛いいと思う心が神心と仰る。その人を祈らなければおられんのです。時にはもうすでにその人を黙って受けただけではなくて、私の心の根肥やしにまでした訳なのです。それが大地の働きでありその大地の働きを働きとして、私共の心の中に頂いて行かなければならんのです。
 素晴らしいでしょう皆さん。お道の信心の素晴らしさはそこなんです。「天然地念」いわゆる、天然の美にも等しい様な大みかげをです。それを見事にキャッチする事はです。私共が、地念の信心以外には無いのです。昨日、日田の竹野さんが、二、三日前から電話がかかっておりました。灯篭が昨日取り替えられましたです。この前の奉斎式までには間に合わなかった。
 それで寸法は勿論計って行ってこうしてあったんですけども。出来たから兎に角あの細工は小さい細工はしてございますから、早く取りに来てくれと云うので、昨日総代さんの高芝さんが、若い者二人連れてから行かれました。ところが又寸法よりもそのあの様に大きく出来ていた訳なんです。これから見ると、その様に大きいと思いませんけれども。私そこのお賽銭箱の横に下ろした時には。
 そげな大きなもんば、あんたどうするのと私は申しました。畳一杯あるんです一つが。あんなに小さく見えますけれど。あの上の方へ傘がありますでしょう、春日灯篭ですから上の方に傘がある。下の方はありませんけど、傘の方が丁度この畳一杯あるんです。それをああた二つもあそこへ持ち込んだら、こげなあんたどうするの。それがそのう竹野さんがいろいろ考えよったら。
 あそこの御神前もあれだけ太かけん、こりゃ太うなからなければいくまいというので、作る前にご相談もせんなり作ったからで作ってしもうて自分も大きいと思ったらしいんですよ。私共が寸法計って行ったのは、あの霊神様のあのお灯篭のちょっと太い位でした。けれどもどうですか、皆さんあすこに下げてみてから、堂々として素晴らしいなあと思われませんか。もう傍から見てご覧なさい。それこそそりゃ見事です。
 なるほど日本一の大工が、腕によりをかけて作ったのですから、確かにそうだろう、そうなんですけれどそう云う事がです、私に云わせると天然の働きだと思うのです。いわゆるあれはそのまま天然の美なのです。そこに人間の知恵とか力ではない。いわば棟梁だけの棟梁の心の中に、神様が自然の中にお働き下さったんです。ひょっとすると寸法間違えとったのかも知れません。勘違いしておったのかも知れません。
 もう出来上がったから仕方がない。もうあんたがたん御神前が太かけんという風に言い訳されたのか、それは判りません。だから家の注文じゃないから要らんといや、要らんと言うても良いのですけれどです。そこに素晴らしさがあるのです。素晴らしいなあと私は、これは、灯篭だけの事ではありません、いつの場合でもそれを感じます。いかにも、その設計士が失敗した様にある。その大工が失敗した様にある。
 このお広前御造営には、その事がもうあらゆるところでございました。そしてそれがおかげであったなあと云う事でございます。そして大工も設計士もほう素晴らしかと言うておるんです。その様な例えば大みかげをです。お互いの日常生活の上にも頂いていけれると云う事は現していけれる。それを先日から神を現すという意味で頂きましたですね。私共が神様を現して行く御用が必要なのである。
 そういうおかげを頂く所の責任がある。氏子の責任として神様のそういう大みかげを頂かせて頂く責任。神様もそういうおかげを氏子が頂いてくれた時に、始めておかげ頂いて良かったなと言うて喜んで下さる時なんです。今日は伊万里の竹内先生のご紹介で、ここの婦人部の方が中心になりましてから、秋永先生を先頭に総代さん方も何人か参りますでしょうが有田伊万里に今度陶器類の所謂茶碗類が揃っていませんから。
 それを揃える為に参ります。恐らく見事な陶器が手に入る事であろうとこう思いますが、その事を今朝私お願いさして貰いよりましたら。昨日一昨日先生方御一家が見えた時にその事を申しましたら。そりゃ六日の日なら私繰り合せて、窯元にも交渉しておきますからと云う事であった。だから伊万里のご信者さん方が、今日はご案内して下さる筈です。それに一番に、伊万里の源右衛門窯という有名な窯がありますから。
 それは見学だけかどうか判りませんけれどもです。源右衛門窯に一番にご案内申し上げますからと云う事であった。私はその今日あちらへ参ります事を、御礼を申さして貰いよりましたら、ご心眼に松右衛門窯と頂ました。松右衛門てなんか有田や、伊万里にありゃしません。柿右衛門とか、今右衛門とか、伊右衛門とかと云うて、今有田の、佐賀の、三右衛門と云うて、大変有名な窯元です。
 その他に、松右衛門なんてある筈がありません。松右衛門窯今日はねいわば神様が、ちゃんと私共が行くのを待って下さる場が必ずあるという事です。そういう天然の中にです、自然の中にです。そういう素晴らしい神様のお働きがあるという事なんです。例えば昨日一昨日、竹内先生辺りが見えるのもです。その前の日にあちらへ行こうという事であったからあちらへ電話ば掛けじゃこてと云いよる所へ。
 伊万里からその先生方ご一家が参って見えたんです。もうここは既に始まっているという感じが致しますでしょうが。所謂源右衛門窯じゃない松右衛門窯。いうなら神様が椛目の為に、いや合楽の為にお作り下さった陶器類が、必ず準備してある事であろうと云う事なんです。成程神乍のものだという事なんです。問題はその神様の御用を下さっておるそれを受け止める為にです。そんならやっぱ行っただけじゃいかんのです。
 そこに私共の地念の信心を持って行かなければ、その見事なおかげをキャッチする事は出来ないという事なんです。もう今日の御理解は皆さん。椛目の真髄と云うても良い位のよい、いわば御理解を頂いておるんですよ皆さん。椛目ではねここのところを頂かなかったら、この合楽通いの値打ちはないです。その例えば伊万里の地方に、佐賀の地方にです。椛目の為にと合楽の為にと、用意しておって下さるものがです。
 見事にキャッチ出来る為にです。私共はいわゆる地念の信心を頂いて行かなければならないという事なんです。地念とはそれこそ大地にひれ伏した姿勢姿なんだ。同時に一切を黙ってです、受けて行く所の大地の心を心として、私共の心の中に治めて行かなければならないという事なんです。そこに私はなるほど神様のお働きって素晴らしいなあ、神様の御神意はここにあったのかと云う様な、私はおかげを頂き、又現して行く事が出来ると思うのですよね。
   どうぞ。